京都大学 川上浩司 2011年4月16日
人類の科学技術は日々進歩している。科学技術研究の成果としての発見を、そのまま打ち捨てておかずに人類、患者に届けることは倫理的観点からも非常に重要である。しかしながら、その社会受容のためには、社会保障制度すなわち保険医療制度というハードルがある。保険医療制度は、公的な国民皆保険制度の場合には、助け合いの精神が基本となっている。すなわち、病気となった者の医療費負担分を、保険費用負担者(すなわち病気にかかっていない者)が支えているのである。ところが、抗体医薬や手術ロボットなど、技術の進歩が高額な医療として適応されるようになると、医療費負担が増大し、仕組みとしての保険制度には限界が生じる。とくに、特定の分子標的の発現が疾病臓器に存在する場合にのみ効果のある分子標的医薬品は、当然のことながら、分子標的の発現が疾病臓器に存在しない場合には効果を示さない。ところが、患者は病気を診断されるまで皆同じように保険料を支払い続けている。同じように助け合いの精神を発揮して負担をしてきたのに、いざ病気にかかると使用可能な医薬品とそうでない医薬品があるというのは不公平ではないだろうか。換言すると、このような医薬品は、オーダーメイド医療の中核をなすと考えられているが、オーダーメイド医療は公的な皆保険制度にはビルトインされにくいという落とし穴があるのである。すなわち、医療費の増大は、科学技術の発展上避けられない問題であり、諸外国でも同様の課題を抱えているのである。
異なる側面から考えてみよう。1960年代に入り、避妊ピルが創出された。避妊ピルについては、女性の社会進出を可能にするなど社会に対するプラスの側面があった。一方で、医療費に対する負担も生じるようになった。そのため、医療制度設計者にとっては、薬そのもののイノベーションを評価する、言い換えれば本当にそういったものが必要なのかについて評価することが求められるようになった。避妊ピルにより女性の社会進出が活発になり、より長く就労することが可能になり、ひいては社会全体の便益は向上した。しかしながら、一方で、家族や子供の生活の質がどのように変化するのかといった経済的な予測もあわせて評価要素とする必要があるとの考えが広まった。1970年代には、米国では世界の他の国々に比べて新技術を好む傾向にあるという国民気質も影響して、ヘルスケア分野において新たな技術に基づくイノベーションが起こった。しかし一方で、その社会的コストが懸念されるようになってきた。新技術により現状の健康、医療上の課題が解決できることが前提にあるものの、医療制度設計者はコスト増になる可能性を理解しつつ、必要性の高い技術であれば、妥当性のある意思決定をするためのリスクとベネフィットを考慮した評価を求めるようになったのである。避妊や臓器移植といった領域においては、避妊ピルによる出生のコントロールや、臓器移植により患者が長生きした場合の社会経済効果は膨大なため、とくに政府主導での評価が実施された。また、政治家や医療、医薬品、保険領域の行政官のみならず、臨床医、患者、民間における医療保険負担者も新しい技術を評価するに値する確かな情報を求めるようになった。
以上のように、イノベーションの評価、とくに保険制度を鑑みた場合の社会受容について、Health Technology Assessment(HTA)の観点が注目されている。科学技術の社会への受容は重要であるが、その適正な価格設定、適正使用のためには、その費用対効果を提示することが望まれるようになっている。以降、とくに昨今大規模な投資が行われている米国における状況を中心に、HTAの動向について解説する。
科学技術の成果の社会受容のために、特定の医療費や薬価などが適正かどうかを評価することをHTAという。HTAには、エビデンスに基づく医療(Evidence Based Medicine; EBM)、費用便益分析(Cost Benefit Analysis; CBA)、比較効果分析(Comparative Effective Research; CER)のプロセスすべてが包含される。EBMの実践のためには、いずれの治療を選択するかという意思決定をするための科学的な根拠を提示する。CBAは、医療介入することによるトータルな費用と便益とを分析する。CERとは、例えば、特定の疾患に対する医療行為AとBとが一定の治療効果を有すると仮定した場合、AとBとでいずれのほうがかかる費用に対する効果があるかについて、統計学的手法を用いて解析するというものである。マルコフモデルなどの手法があり、疫学研究の範疇で実施されるものである。また、抗癌剤治療などにおいては、患者の生存期間にQOLの観点も合わせた質調整生存年(Quality Adjusted Life Year; QALY)や、従来療法よりも1QALY多く得るために必要な追加費用(Incremental cost-effectiveness ratio; ICER)といった指標をもちいることもある。いずれもリスクとベネフィットのトレードオフを焦点に当てている。
米国オバマ政権の医療改革においては、CERをHTAの中心に捉えている。例えば、大腸癌などに適応のある抗癌剤のアービタックスは、年間7万から9万ドルと多額の薬剤費が掛かる。アービタックスによる薬剤治療によって数か月の延命効果が見込めるが、CERにおいてはコストに対するベネフィットが大きくないと理解されている。しかしながら、公的皆保険ではない米国においては、選択の幅も尊重されている。患者、患者家族としては、CERによる科学的判断と同様の判断をするかというと必ずしもそうではないという側面もある。
米国におけるHTAは、ヘルスケア関連技術の構造的な分析や政治的意思決定に資するものである。評価対象としては医薬品や医療機器のみならず、診断方法、治療法、医療システムをも含んでいる。新しいテクノロジーが出てきた時に、今までの既存技術や他の手法と新規方法との違いを評価するが、その評価方法はその有効性、適切性、影響度の評価となり、その評価時期は製品の上市前と上市直後が典型的である。評価者は政府の規制当局から独立した第三者の政府機関あるいは他の機関となる。HTA(狭義にはCER)の評価者によるリスクとベネフィットの評価結果は、関連する政策決定者に提供され、その上で意思決定がなされる。すなわち、米国におけるHTAの結果は、政府機関である米国食品医薬品庁(Food and Drug Administration; FDA)による規制、制度設計に使用され、また公的な医療保険負担(メディケアやメディケイド)や償還金の適用範囲にどの技術まで含めるべきかを判断するCenters for Medicaid and Medicare Services(CMS)により利用される。さらには民間の医療保険会社、患者個人個人に最適な医療を提供するための診断法、治療法、手順を選択するために、医師や学会、病院も利用する。特に癌患者の診療についてのHTA関連の情報提供は、各種の国際的なネットワークがインターネット等を介して実施している。これは米国単独の事情というよりも世界的な潮流といえよう。
HTAは疫学領域の研究としてアカデミアでも実施されるが、上述のように、社会保障政策の中でも昨今は世界的に重要な位置をしめるようになっている。そこで、英国ではNational Institute for Health and Clinical Excellence (NICE)という行政機関が1999年に設置され、臨床有効性研究やCERを実施している。1999年には抗インフルエンザ薬であるRelenzaの評価、2007年には吸入インスリンであるExubera、2009年には抗癌分子標的医薬、抗体医薬のAvastinなどについて、保険医療に推奨しないなどの勧告を行っている。ドイツでも保健医療サービスの質と効率性を評価する機関として、Institut f?r Qualit?t und Wirtschaftlichkeitim Gesundheitswesen(IGWiG)が2004年に設立され、同年、スタチン系抗高脂血症医薬品の評価を発表している。また、公的な皆保険制度をもたない米国においても、1999年のクリントン政権時に設置されたAgency for Healthcare Research and Quality (AHRQ) という行政機関が、オバマ政権下で強化された。民間の医療保険会社(HMO)も独自でおこなってきたこのような評価を、政府としても実施していこうというわけである。以下にAHRQの取組みについて紹介する。
政府機関としてのHTA実施のために、AHRQは4つのプログラムを提供している。
AHRQと各パートナーとの関係は、上述のプログラムを通じて構築されている。たとえば、製薬企業であれば、AHRQがEPCsとして連携しているアカデミア機関に評価を依頼することができる。政府機関、とくにCMSは、CMS向けに特化したサービスを提供している委託する部署に評価を依頼する。AHRQに対してCMSから技術評価やシステマティックレビュー、データ分析(Coverage of evidence development; CED)が依頼される際、AHRQはCMSの意思決定を支援するが、AHRQ自身はあくまでも透明性を保って評価研究を独立して評価を実施している。なお、HMOは独自の評価結果とAHRQの評価結果の両方を考慮して保険適用範囲を決定している。現時点ではHMOによる評価はCMSと類似しているが、オバマ政権下における医療改革が実現した場合には、HMOの保険適用範囲も変わってくるだろう。患者、あるいは国民にとっては、今後はジェネリック医薬品の応援に注力するHMOよりも、当該HMOが高価な医療技術の保険適応を行うか、あるいは保険適用外のコストがどの位かかるかという点も、医療保険を選ぶ際の意思決定に関わってくるであろう。
さて、AHRQの研究は、とくに上述の(iii)などではアカデミックベースであり、大学と連携して研究を行っている。また、臨床医の学術団体、学会、患者団体とも協力関係がある。また、14の大学機関には、HTAにおける疫学研究に研究費を配分し、評価を実施させている。また、大学側から新規研究の提案申請がある場合には、審査を経てAHRQから申請研究に対し研究費支援をする場合もある。AHRQは、国際薬剤疫学学会(International Society for Pharmacoepidemiology)に参加し、英国NICEとも3年にわたる共同研究(coverage evidence for development)を実施、またアジアにおいては韓国ソウルにおいて行われている国際会議に参加、オーストラリアとも共同研究をし、Guideline International Networkなどの作成を現在進行している。WHOとは臨床試験データのデータベース作成も行っている。日本との公式な関係は、政府レベル、学術レベルともにまだ構築されていないようである。
AHRQの実施するCERにおいては、各種論文を用いたシステマティックレビューの手法や評価法を開発しており、昨今は確立されたものとなっている。AHRQはコクラン共同計画にも積極的に参加しており、公表前の文献や英語以外の文献の評価や比較をしたり、患者個人のデータを分析することもある。AHRQのシステマティックレビューの結果はウェブサイトにも公表されている。また、最近はウェブサイトでの公表にあわせて米国内科学会雑誌(JAMA)などの学術誌にも論文発表をしている。特定の領域に対して、科学的に信頼できるエビデンスがあるかどうかの調査をおこない、システマティックレビューによってエビデンスレベルの脆弱な領域の研究課題決定や、またエビデンスレベルを強化するための研究を行っている。システマティックレビューに際しては、基本的には査読学術論文を検討対象としているが、場合によっては民間保険会社やメディケアプログラム、電子カルテから収集したデータを用いて、エビデンスレベルを向上する試みも行っている。このような場合には、有効性の結果を検証するための臨床試験データによる公表論文以外の臨床結果も使用して評価をすることができる。しかしながら、米国においてもランダム化されたデータが不十分のため十分な基盤情報が足りないということが明らかになってきた。このため、最近政府がCERのためにインフラを設立し、後ろ向きのみならず前向きの疫学研究のための新しいデータベースを構築、レジストリーを強化しようという投資が始まったのである。2011年までには前向きの疫学研究のための新しいデータベースインフラが構築され、CERのためのデータ整備が支援される予定である。各疾病領域や手法の確立に向けて、AHRQとNIHが共同してCERのための重要な実例選定などの討議を行っているようである。
昨今の景気後退の波を受けて、米国政府においては約11億ドルがCER関連のアクティビティに予算配分された。そのうちAHRQには約5億ドルが分配された。そのうち、多くの予算は上述のようなCER研究を継続するためのインフラ設立、すなわちデータベースの整備、レジストリなどに使用された。データベース整備関連では、AHRQは2007年に ”Registries for Evaluation Patient Outcomes - A User’s Guide” を発行した。ここではデータベースの設置の条件やレジストリの在り方、研究使用について網羅的に解説がなされている。韓国語や中国語には翻訳が出されているようである。AHRQ自身。このようなデータベースのインフラを利用して10の大規模臨床研究や、6つのネットワーク研究(前向き研究、既存データの分析研究など)を実施している。さらに、トランスレーショナルリサーチの領域においてもエビデンスに基づいた臨床データの最適な運用に関する研究に研究費配分を実施しているようである。若手教育についても、数か所のアカデミアにおける学生やポスドクがCERを実施するためにデータベースを運用し、またこのような領域の研究を行う若手研究者向けのアワードにも支援している。
CERが重要な点は、患者や政策立案者が抱える課題を明確にできることである。また、研究者や政策立案者、医療関係者が集まり、重要なCER研究の結果やトピックを共有することにもAHRQは積極的である。このような会議体を経て、今後どのような研究領域を重視して、どれくらいの規模の研究資金を投入するべきかなどを決めていく。
AHRQにおいては、CERのプロジェクトは現在200件ほどが実施されている。CERの各プロジェクトの対象医薬品などの選定に際しては、まず主としてメディケアのデータを分析し、高コストなものや医療上のインパクトが大きいものを選択している。5年ほど前にCMSが優先順位を決めた際には、数回にわたる公開会議を実施し、コストや患者数、治療可能性といった観点から慎重に領域を決定した。
HTAはヘルスケアの効果や提供体制そのものを改良し続けるために設計されているが、まだまだ運用面では問題を孕んでいる。たとえば、米国内外、あるいは公的機関と民間機関との間においても、まだ評価方法の標準化や当事者間の同意、透明性が図られているわけではない。今後のオバマ政権の医療改革は、AHRQなどにおけるCERの結果をより有効に活用し、どれだけ国内の医療提供網を改良できるかにかかっていると思われる。将来を見越して、大手製薬企業やHMOは、HTA、CERなどの評価と、それによる意思決定分析を実施していくことを早期に表明している。
科学技術の進歩を適正に社会受容することは、世界の趨勢となっている。ものづくり側、すなわちアカデミア研究者や製薬企業にとってこのような考え方を理解することは重要で、わが国においても、HTAへの研究投資、実践を通じて、医療・健康への貢献と、ビジネス、科学技術の進歩という3つの観点に手を取り合って貢献できればと願う次第である。