京都大学 川上浩司 2009年10月5日
狭義のレギュラトリーサイエンスという言葉は、日本語で規制科学と訳されることからもわかるように、環境衛生や食品衛生領域の化学物質の安全基準の数値を設定するための科学、あるいは医薬品の安全性のうち非臨床試験に関する薬理学といったところに限定されてきた印象がある。ところが、臨床の現場で用いられる治療用品は、古典的な医薬品、低分子化合物に限らず生物製剤(バイオテクノロジー製剤)、医療機器と多様であり、それぞれの特徴を考えた開発手法、前臨床研究、臨床試験、市販後調査の方法が存在する。従って、医療用品のレギュラトリーサイエンスに関しては、研究開発から承認後の実際の臨床の現場での使用に至るまでの各段階において手当てがなされていくべきなのである。すなわち、医薬品、食品、環境物質など、人体などに影響がある物質の適正かつ安全な使用のために、その基準値、安全性・有効性の評価、対応、上位では行政施策やシステムのあり方について、実験室での研究(ウェット研究)や社会学的研究・疫学研究(ドライ研究)、臨床研究を通じて検討し、また行政施策や社会に対して研究成果や考察を情報発信していくことが重要である。
スナック菓子の包装紙の裏面に表示されている食品原料となる植物の標記には、わざわざ「遺伝子組み換えではない」という記載があることがある。これは、消費者からみると遺伝子組み換えの農作物は安全ではない、危険なのだという印象をもつことになるのが日本語の難しさである。私は、これは科学の及んでいない領域に対する一種の呪いの言葉だと思っている。つまり、科学的あるいは経験的に安全性が担保されているのならばよいのだが、(i)科学的根拠のない、あるいは(ii)その根拠がきちんと伝えられていない場合(上記の例の場合には、遺伝子組み換え作物)は、忌避すべきもののようにこの商品はそうではないのですよ、と書かれているのである。ここで重要なのは、(i)については、科学的根拠がないのならば解明のための研究をきちんと行うということである。この場合には遺伝子組み換え作物の安全性を検証するための研究を立案、実行することになる。(ii)は、科学コミュニケーション、また特に医療の分野ではヘルスリテラシー(健康情報)といわれる分野であり、科学、医学の研究成果をきちんと伝えていくための作業となる。レギュラトリーサイエンスの領域は、狭義には(i)の部分の科学ということになろうが、(ii)の部分をもきちんと理解した上で科学研究の成果を施策立案者、行政実行者、生産者、そして社会に伝え、根拠に基づいたアクションへと繋げていくことが必須であろう。いずれにせよ、新しい社会医学分野としての振興が望まれるところである。
レギュラトリーサイエンスというと、和訳直訳すると「規制科学」と訳されることから、規制をしてイノベーションの確度を落としてしまうような印象を与えることもあるが、これはまったくの誤りである。たとえば、再生医療などに用いられる新規性の高い細胞を医療応用化する場合、その細胞が本当に目的臓器を形成するのか、癌化しないのか、感染症のリスクはどうなっていくのかといった懸念事項をクリアしない限り、規制当局からの承認を受けることは出来ない。そのため、研究開発の各段階において、同じ時間軸でその評価系も構築し、動物実験や臨床試験データから安全性の情報を取得していく、またその科学的結果を行政・規制のガイドラインへと反映し、承認を迅速化していくという考え方は、国際的にも推進されているところである。よって、先進的な研究にしっかりと安全性等の裏づけを与えることによって、そのゴール(社会での使用)を明確にしていくことは、イノベーションの確度を高めていくために大変に重要である。インフラ基盤としての共通認識として、行政からの支援が必要と考える。
安全性や有効性の評価を研究開発の段階で行っていくためには、具体的には、実験動物系にける疾患モデルの確立、システムバイオロジーを応用した評価系の確立、臨床試験のデザインや統計解析にかかる研究などがこれからの課題であろう。
製造販売承認(市販)後の安全性監視(ファーマコビジランス)、市販後臨床試験に代表される医薬品の適正使用調査など、いわゆる古典的な薬剤疫学研究は、レギュラトリーサイエンスの重要な領域を担っている。フェーズ1、2、3といった市販前の臨床試験段階では、介入研究として対象患者を限定した環境の中で試験が実施される。そのため、実際に医療の現場で多様な合併症や年齢などのバックグラウンドを有する患者に処方された際の反応性(リアルワールドにおける事象)を予想できない場合がある。このような市販前臨床試験の限界を踏まえて、実際の医療の現場で薬剤が使用された際の超個性的な副作用や慢性の薬剤反応をきちんと理解するためには、介入研究ではなく、多くの患者を対象とした観察研究を行うことが重要となるのである。現在では、大規模な観察研究を行うための薬剤の反応性の検出(シグナル検出ともよばれる)や電子カルテなどによるデータベースの完備などが薬剤疫学の推進のための重要な要因であると考えられている。
先端医学の知見の進歩によって、新規メカニズムを有する医薬品や生物製剤の開発機会が増した。しかし、効果も高いが副作用の存在する事例も増加している。市販前の臨床試験ではわからなかった有害事象が医薬品の承認後に明らかになり、市販に際して通常以上の安全性の監視と活動が必要となる例も今後増えると考えられている。2004年11月に米FDAが再発寛解した多発性硬化症に対して承認したnatalizumab(商品名はTysabri、Biogen Idec社およびElan社から発売)は、臨床試験に参加した3人の患者において、進行性多病巣性白質脳障害(Progressive Multifocal Leukoencephalopathy; PML)が発症していたことが明らかになり、承認後3ヶ月で臨床試験及び販売が中止となった(その後3人のうち2人は死亡した)。2006年6月、FDAはリスク最小化活動計画(Risk Minimization Action Plan; RiskMAP)というガイドラインの提示と、RiskMAPに従ったnatalizumabの適正使用を企業および医療機関に指示した。これによってnatalizumabはついに事実上の上市がなされることになった。RiskMAPとは、医薬品の使用にあたっての重要な特定されたリスク、重要な潜在的リスク、重要な不足情報を勘案し、通常の医薬品安全性監視以上にさらなる対応を義務付けるものであり、ベネフィットも高いがリスクも存在する医薬品に対して提示された考え方である。natalizumabの販売と使用にあたっては、とくにTysabri Outreach Unified Commitment to Health (TOUCH)プログラムが開始し、TOUCHプログラムに参加する施設、患者に限って処方されること、PMLの発症を早期に診断するために、投薬前の患者にMRI撮像を行うこと、また初回投与後、定期的に患者の評価結果を販売企業に報告することなどが義務付けられることとなった。わが国において、昨年にサリドマイドがこのような考え方に沿って承認され、適正使用が計画されていることは周知のとおりである。
以上のように、昨今、医薬品や生物製剤の潜在的リスクも複雑化していることは否めない。このため、研究開発のフェーズにおける安全性評価のみならず、市販後の安全性評価も多様化、強化を余儀なくされているのである。
私は、医薬品の研究開発に関連した疫学の重要領域は、基盤的疫学、臨床疫学、薬剤疫学の3つであると考えている。欧米に比べて、わが国はいずれも遅れをとっている。 まず基盤的疫学ともいえるフィールド疫学、古典的な疫学研究については、日本では、重要な疾病領域に関しても患者が本当に何人いるか、診断を受けた患者の治療アウトカムについてのデータベースが希薄であり、基盤的な疫学情報は弱い。国民皆保険制度のために診断名と医薬品、医療のアウトカムの解明は容易と考えられがちであるが、実際には、病院は使用された医薬品から病名を後付けすることで保険収入を確保せざるを得ないこともあり、情報の正確性は担保されていない。また、米国で1996年に制定されたHealth Insurance Portability and Accountability Act(HIPAA)のように医療情報を使用した研究における個人情報の取り扱いについての規定がなく、医療情報の研究使用についての整備は立ち遅れている。
地域コホート研究は、整備に時間がかかり、また論文化まで時間がかかるため、研究費の長期的な支援や研究支援基盤がない限りその立ち上げや成功は困難とされている。国の施策として、複数の地域での長期的な研究費、人的支援を行っていくことを期待する。また、国民の健康サービスの向上や疫学研究のためには、日本国内で統一された住民台帳番号は有効である。例えば小学校のときに学校健診を受けた際のデータが、住民台帳番号を通じて大人になってからの健康診断や医療のデータと連結できれば、小学校の頃の健康データと30年後、40年後データとを用いた多変量解析によって病気のリスクや病因解明への発見が期待できよう。すなわち、健康、医療の向上に対しては疫学調査、研究が必要だが、このような番号制度の整備も同時に重要なのである。もちろん、国家としては、納税の管理や社会保険の整備にも有用であることは論を待たず、昨今の社会保険庁による情報登録不備も起こらない。以前マスコミから国民背番号制度として叩かれたが、しっかりとした説明と運用の担保があれば、是非導入すべき制度と考えている。
1960年代後半から提唱された確率論に基づく臨床診断や治療選択のための臨床判断学をもとに1970年代に結実した臨床疫学は、医学の最新の成果を早く、安全に、適切に、安価に患者に届けるというミッションのために発達した臨床研究である。医薬品等の開発型研究であるトランスレーショナルリサーチと臨床疫学研究とは臨床研究の車の両輪を担っていると考えられ、とくに臨床疫学の手法に則って実施されたアウトカムリサーチによって創出された科学的エビデンスは、エビデンスに基づいた医療(evidence-based medicine; EBM)を実践するために不可欠である。わが国でも、約100年前に東京慈恵会医科大学の学祖である高木兼寛医師が洋上における脚気の臨床研究をLancet誌に掲載したという金字塔がありながらも、この分野の研究振興は低調であるといわざるを得ない。
低調な理由は、医師不足と保険医療制度に集約されるといえる。日本の医者は27万余しかおらず、大学受験によって医学部に入るということは、将来ほぼ臨床医となることを意味している。なぜならば日本には医者が少ないので、臨床医にならないと日本の医療を支えていけないからである。医師が少ない理由は、医学部の定員が少ないからであり、日本の保険制度における医療費削減の施策の一環ともいえよう。このように大学受験時に将来の職種、人生が決まってしまうという意味において、医学部は特殊かもしれない。法学部を出たら皆が弁護士になるわけではなく、検事になる人もいれば、政治家、行政、会社と選択できるわけで、様々なキャリアパスがある。この場合、法学を学んで何をするかという多様性を持った人材養成ができており、これが大学学部のあるべき姿かと思う。健康価値が益々重視されている現代にあって、医学を学んで何をするかということ考えなければならない。すなわち、医学を学んで医者になるだけではなくて、ヘルスケアを考えるようなビジネスを創出する、あるいは行政も厚生労働省だけでなくて、日本の将来の社会保障や基幹産業を考えて財務省や経済産業省に人材を輩出する。民間会社も既存の製薬会社だけではなくて、ヘルスケアに対する価値観を創出する行動としてアントレプレナーシップを持って会社を作るのもよい。話が逸れたが、このような状況において、昨今、医学部卒業生で基礎医学研究を志す者も減っているのは憂うべきことである。さらに、臨床研究、とくに臨床疫学研究については、日常診療で手一杯のなかで実行も出来ず、体系的に教える人や施設も少ない。京都大学医学研究科では、比較的若手の臨床医を対象に、疫学や統計、倫理、医薬品開発、健康情報を一年間体系的に学んで、なおかつ実際に研究も実践して臨床研究を立案、実施、論文化する、学位(Master of Public Health; MPH)を有した人材となるための臨床研究者養成(MCR)コースを開講し、大変に好評である。ところが、大学院の卒業生が自分の所属する医局や現場に戻ると、そこに待ち受けているのは、目の前の患者を救うことで手一杯で臨床研究を行うための時間がない、研究支援のための協力者、支援体制が足りない、アカデミアでない一般の病院では研究費に申請できない、研究してもそれが自身のキャリアパスにつながらないのではないかという不安がある、という苛酷な現実であるという。日本で今後臨床医が臨床研究を行って科学的エビデンスを創出するために、また、日本や世界の健康や医療に資するために臨床医のみならず基礎研究、行政、会社、起業家を輩出するためには、臨床現場を充足するためという医師数目標ではなく、より大きな視点から医学部定員を考えるべきであろう。これは、(i)日本の政策や税収への貢献、また(ii)臨床医の数の増加、競争による医療の質の向上にもつながる。保険医療制度との関連は臨床研究の実施基盤や健康情報にもつながるが、この詳細はまたの機会に述べる。
薬剤疫学という学問は、臨床疫学と臨床薬学にまたがる新しい分野として1980年代に米国で確立した新しい学問である。その研究領域は、医薬品市販後の安全性監視(ファーマコビジランス)、医薬品の効果や副作用に関するアウトカムリサーチ、医薬品の経済性研究、医薬品の安全性評価のためのレギュラトリーサイエンス、医薬品行政の関連法規・ガイドラインの策定に関わる研究と幅広い。わが国においては、これらすべての領域にわたって層の厚い研究者と理解者がいるというわけではなく、まだまだ裾野の拡大と更なる分野の振興が望まれるところである。
前述のように、薬剤の適正使用におけるデータベースの整備とシグナルの検出は重要であるが、米国では近年、FDA改革法案の中で市販後臨床研究と疫学の強化について連邦議会で決議された。これを受けて、行政当局であるFDAがITシステム企業から大規模な疫学研究システムを導入して、複数の国内大手医療保険企業との連携を開始した。米国で新規に承認された医薬品については、承認以降にデータベースにおいて予測される有害事象報告が登録される。そこで、承認後の時間経過とともに、たとえばある薬剤では有害事象が初期から報告されたが、その後は報告があまり出なければ、最終的には予測値より下回ることになる。一方、有害事象報告が徐々に増加して最終的には予測値を超えてしまうということになると、承認取消、市場撤退ということにもなる。このシステムの導入によって、有害事象報告を受けての行政からの指導がさらなる報告件数増加をもたらす、といういわゆるレポーティング・バイアスの問題も解消することができるようになった。
日本は、審査承認は遅いが市販後の安全対策は進んでいると言われてきたが、米国の取組が効果的に運用されるようになれば、この点についても後進国となってしまうことを懸念している。医薬品の適正使用は患者にベネフィットをもたらすことは論を待たないが、医薬品産業にとっても、薬剤疫学研究が新たな研究開発に対する貴重な情報になることは疑う余地のないところである。
今回は、基礎研究から臨床試験を経て応用にいたるまで、また臨床現場で医薬品が使用されてからという観点で、レギュラトリーサイエンスの重要性について解説した。また、疫学基盤の整備、臨床疫学や薬剤疫学の推進は製薬企業、産業界だけで実施できるものではなく、政府の取り組みとして行っていく必要がある。今後のインフラ整備が待たれるところである。